核保有議論アレルギー

2006/11/03

ニュース

まーた「核議論すべき」という発言でアレルギー反応を示す人がいますね。なぜ核を持たないべきか、という話をするのも立派な「核議論」なんですが、どうもそれがよく分かっていない。


なぜ「核議論すべき」という発言が問題視されるか、それは「核を持つべきだ」という発言だと捉えているからだ。しかし、「議論すべき」という発言の真意は「国民共通の認識として、なぜ今は核を持つべき/持たないべきなのかをはっきりさせておくべき」という意味であると私は考える。

私の個人的な感想では、現状で日本が核武装することは無意味であるし、周辺緊張を招く、および東南アジア諸国にあらぬ誤解を招きかねない点からも経済的に不利益と捕らえて、核武装はしないべきだと考える。

これは、私の考えだ。私の知っている知識では、「日本の核武装は無意味」と結論付けた。しかし、私の知らない知識を持っている人から「いや、コレコレな面もあるので無意味というのは言いすぎである」といった指摘を受ける可能性がある。
私は、その議論によって、それまで知りえなかった核武装の有意義性を認識することができる。プラスの材料とマイナスの材料、両方の知識を再構築して、自分の中で「さて、もう一度整理してみると核武装は有意義だろうか?」と考え直すことができる。
これを全国民レベルでやるべきだという話なのだ。

よく「核は人殺しの道具なのだから持つ必要が無い」というレベルで否定されることがあるが、そういう人にとっても「今なぜ日本が人殺しの道具を手にするべきなのか?」という知識を仕入れることができる。
逆に、それを教えてもらっても「そんなこといったって、イヤなものはイヤ!」とか女の腐った言い訳みたいなことを言う人は、それは人からの指摘を素直に受け入れることの出来ない、要するに進歩に乏しい人間なのだということを露呈しているに過ぎない。
自分の主義主張を貫き通すのが正しいのではない。ディベート大会で争って勝とうとしているわけではない。裁判で陪審員の心象を操作しようとしているのではない。日本の国防を、日本人が正しく認識し、前向きに捕らえよう、という発言なのだ。それをただのアレルギーで「あの発言は許せない」とかまとめてしまうようでは、それこそ進歩の無い国になってしまう。

私は、昨今のネット右翼化時代を好んでいるわけではない。明らかにネット情報に踊らされている層も存在する。しかしそれを認識した上で、それでも現在の右傾化は「国としての正しい推移」だと考える。
右傾化によって、このように国防について正しく正面から向き合おうではないか、という発言をすることができるようになったのだから(ちょっと前までは、核議論というだけで大臣が更迭される時代だったのだ、その時代が異常であったことを今しっかりと認識しておくべきだと思う)。

今の世界の中で、強硬手段以外で新たに核保有できそうな国が日本以外にあるだろうか? 世界からの信用を背景に、平和裏に核武装を許される、もしそんなことがあるとすれば、それはそれで素晴らしいことだと思うし、日本の信用を世界に誇れることになる。
しかし、その核保有によって失うものもかなり大きいはずだ。核を持っていることで、同じ発言でも違う意味に取られかねない。核を持たない、武力は最小限(遠征能力は極小)という前提で好意的に受け入れられていた発言もあるはずだ。
今の日本にとっては、武力が小であることを背景にしたメリットの方が大きいと感じる。結果としては、核保有などすべきではない、と結論付ける。

これが、正しい「核議論」だろう。

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